Unexploded Shell関門海峡と不発弾Unexploded Shell

Greater East Asia War

1945年昭和20年
太平洋戦争末期

【3 月】
27日 92機の B29 により機雷敷設
30日 85機の B29 により機雷敷設
【5月】
120 機の B29 により機雷敷設
【6月】
150 機の B29 により機雷敷設
【7月】
戦況の激化により資料なし
【8月15日】
日本の無条件降伏
 B29

戦後関門地区には約5,000発もの大量の機雷が敷設されており(米軍資料)、航行の危険性は持続していました。
米軍によると「機雷の電池寿命は昭和23年頃尽きると推定」などと通告していたが、現実にはそれ以後も触雷事故が絶えなかった。
米軍はその都度機雷の寿命見積を延長したため下関掃海部は解散することが出来ず、海上保安庁、海上自衛隊と所属は変わったが関門の掃海は継続されました。
長い年月にあたり機雷探査が実施され多くの機雷が安全に回収されました。しかし現在でも、年間数件ペースで機雷や砲弾などが発見されています。
現在まで3500発を発見回収したがまだ1500発以上沈んでいるといわれております。

https://nishikata-kensetsu.jp/wp-content/uploads/2022/04/unexploded-shell_64.jpg

不発弾処理

2013年8月13日
太平洋戦争末期に米軍が投下した機雷を関門海峡の海中で爆破処理を実施。高さ 100m 以上の水柱があがった。
https://nishikata-kensetsu.jp/wp-content/uploads/2022/04/unexploded-shell_66.jpg

太平洋戦争末期、
関門海峡に投下された機雷

参考)海上自衛隊呉資料館