戦後関門地区には約5,000発もの大量の機雷が敷設されており(米軍資料)、航行の危険性は持続していました。
米軍によると「機雷の電池寿命は昭和23年頃尽きると推定」などと通告していたが、現実にはそれ以後も触雷事故が絶えなかった。
米軍はその都度機雷の寿命見積を延長したため下関掃海部は解散することが出来ず、海上保安庁、海上自衛隊と所属は変わったが関門の掃海は継続されました。
長い年月にあたり機雷探査が実施され多くの機雷が安全に回収されました。しかし現在でも、年間数件ペースで機雷や砲弾などが発見されています。
現在まで3500発を発見回収したがまだ1500発以上沈んでいるといわれております。